「経験しなきゃわからない」と「教育」

数十年生きてきた中で「経験しなきゃわからない」という言葉は実感を持って正しいと思える。

一方で、「経験しなきゃわからないでは困る」こともたくさんある。ある戦争体験者が「戦争の愚かさを『経験しなければわからない』ではいけない。経験しなくとも理解できるような平和学習をぜひやってほしい」とおっしゃっていた。

また、初めて手術をする脳外科医に「どうぞ練習してください」と自分の頭を差し出す人もいないであろう。

「どちらが正しい」なんて不毛な議論をする気はない。どちらも極端と言うものだろう。

大事なのは、「教育」とはできる限り「経験しなくてもわかる」に近くあるべきだ、ということ。

これまでの学校教育における「何のために学ぶのかわからない」「丸暗記だけで応用がきかない」という反省は、「経験しなくてもわかる」状態からほど遠い、ということであろう。

その反省に立った「ゆとり教育」で、自分で考える力を養おうとしていたはずだったのに、今は世の中を挙げて「ゆとり教育批判」である。その批判の根拠の多くは「学力が低下した」というもの。

ひょっとして、以前と同じ「知識の量」で計っていませんか? 目的を変更したのなら、評価方法もふさわしく変更しなければならない。